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2017/11/02

療養のための食べる瞑想⑤:なんとなく、スピリチュアル


さて、
食べる瞑想に関連して、
スピリチュアルなテーマが続いていますが、
今回が、最終回です。

前回は、こちら↓
療養のための食べる瞑想④:植物に感情はあるか?

・・・

前回のまとめは、

例えば、
トマトを食べる時、

トマトを生み出した、
トマトの木の、
感じる
考える
信じる」に
想像力を働かせよう、

というものでした。

さて、これが、
療養生活にどんなふうに、
役立つのでしょうか?

・・・

スバリ、
そのように
想像力を働かせたほうが、
食材から元気がもらえる、
ということに尽きます。

なぜなら、
我々PSMの、
とても弱った
「感じる」
「考える」
「信じる」に比べて、

食材たちの、それらは、
圧倒的に、ヘルシーだからです。

単に、食材の、
栄養価、という
「動く」の側面だけでなく、
他の3つの側面も、

食材をいただくことで、
自分に取り入れる、
ということ。

それを、
食べる瞑想として、
やってみよう、
ということです。

・・・

例えば、トマト。
それを生み出した、
トマトの木の、

「感じる」
「考える」
「信じる」…。

それが、何なのか、
もちろん、正解はありません。

みなさんの想像力に
任されています。

ただ、参考までに、
PSMの「弱った」パターンと
比較しつつ、

トマトの木が、しゃべったら、
こんなセリフになるだろう、
という例を挙げてみます。

・・・

<感じる>
「真っ赤に熟れたトマト、
おいしいよー
是非、お試しあれ…」
「これも、ひとえに
太陽のお陰です…」
「あと、無農薬にこだわって
手間暇かけてくれた
農家の方に感謝です…」

相手につくす純粋な喜びや、
自分の子孫を残すためとはいえ、
誰かに食べてもらいたい一心の、
利他のこころ。

そして、自分がお世話になった方への
感謝の気持ち。

そんなところでしょうか。

これは、
特に前者は、
PSMというより、ヒト一般に、
とてもマレ、ですよね。

<考える>
「どうしたら、
養分の多い場所に根を延ばし、
日光がよくあたる所に葉を茂らせて、
おいしいトマトを作るか、
それしか、考えてません…」

迷いがありませんね。
こんなふうに、
我々も療養生活が送れたなら、
どんなにか、
日々はシンプルでしょうか。

<信じる>
「私はトマトです、
トマトに生まれた、
その使命をまっとうするだけです」

ゆるぎませんね。
ナスに生まれたらよかったのに、
だの、
わたし隣のトマトより見劣りする?、
だの、
どうでもいいのでしょう。

・・・

さて、
こんなトマトの木みたいなヒトがいたら、
無敵のヒトですよね。

そう、そんな無敵なトマトの木の
万感の思いがこもったトマトを、
あなたは、
いただくのです。

「有難い」
「頂きます」
という声かけをするしか、
ありません。

そして、その無敵の元気を
いただくわけです。

・・・

これ、スピリチュアルです(苦笑)

と同時に、
この観点に立たないと、

自分の、
「感じる」
「考える」
「信じる」に、
根本的に不足しているもの、

それが、
わからない場合、
多いと思います。

だって、
そんな無敵なトマトの木みたいなヒトが、
そうそう、
目の前にいないから。

そして、
根本的に不足しているものを
まずは、知ることからしか、
回復は始まりません。

そして、それが、
食べる、ということで、
補うことができるのです。

だから、
スピリチュアルな観点が、
療養生活に、重要なのです。

・・・

さて、
上記は、小椋の想像した
一つの例でした。

ここで、
そもそもの発端をつくってくれた
読者のAさんの、
続報を、ご紹介しますね。
(Aさん、掲載了承済み)
(段落を区切った以外は、
原文ママ)

・・・

「食べる」という行為は
わたしにとって
単なる食事、生命維持以上に
重要な役割を担っています。

その食事について
こうしてテーマとして複数回に渡り
取り扱って頂いていることが嬉しいです。

さて、今回返事を書かせて頂いたのは
概念として掴みにくい「光を受け取る」事について
少し書かせて頂こうと思ったからです。

————————–

「食べ物から光を受け取る」

突然そう言われても、
よく分からなくて当然です。

「光」というのはとても抽象的な概念で
言葉にするのは難しいです。

そこにあえて言葉を当てるとすれば、

「命の輝き」 とか……
「食べ物がここに来るまでに辿った物語」 とか……
「食べ物を作った人の思い」 とか……

そのようなニュアンスでわたしは捉えています。

小椋先生が書かれた「こころ」も
同じ系統だと思います。
食べ物が持つ
「意思」かもしれません。
料理の材料に込められた
「たましい」かもしれません。

大事なのは
「光とは結局なんなのか」ではなく
「『光』と呼ばれる何かを目の前の食べ物は持っている」
と知ること。

目の前に置かれた
野菜が
果物が
穀物が

「『光』と呼ばれる何かを持っている」

そう意識しただけで、
何となく、
その食べ物が喜んでいるように
感じませんか?

喜んでいると感じた食べ物を
一口食べてみて下さい。
味はいつもと変わらなくても、
何となく、
心が満たされるような気がしませんか?

「何となく」で良いんです。

うつだって、
「何となく気分が重い」ところから
始まりました。

だからうつが良くなる時も
「何となく、嬉しい」。
そこからスタートを切れたのです。

・・・

「何となく」から、始めよう。
すごく、いいと思います。

どうしても小椋の説明は、
医師という立場上、
ある程度の厳密さを
文章に求めてしまいがちです。
(ゴメンなさい)

Aさんのコメントが、
そのバランスをとってくれるようで、
助かります。

・・・

さて、
食べる瞑想に取り組む時、

Do:
なんとなく、スピリチュアル、
から始めよう。

Don’t:
食材を擬人化することの
どこがスピリチュアルだ?!
と一蹴する。

いかがでしたでしょうか?
同じ悩みをお持ちの方は、
ぜひ一度、お問い合わせください。