2019/10/05
何もしないことに耐えられないあなたへ③:思考の暴走とは?
さて、
何もしないことに耐える、
というテーマの、続きです。
前回は、
エックハルト・トールの、
彼の転機となった体験を
お伝えしました。
今回は、彼の著作、
パワー・オブ・ナウの内容を
ひもといてみましょう。
とは言え、
本質的なポイントは、
実は、すべて、
彼の転機となった体験の中に
含まれていて、
彼の著作は、
そのような体験を
妨げているものは何なのか、
架空の弟子の質問に
答えるかたちで、
進行していくのです。
だから、
前回のまとめの部分を、
簡単に振り返っておきましょう。
・・・
まず、
二人の私、が
いましたね。
一人は、
ひたすら、
過去への後悔と
未来への不安に苛まれつつ、
思考を続けている、
当事者の私。
この私にとって、
思考を続けることは
自分の存在の証のようなものであって、
それを止めようとすると、
死の恐怖におそわれる。
そしてもう一人は、
その当事者の私と、
とても一緒にやっていけないと感じている、
観察者の私。
この状況で、
エックハルトは、
思考が止まることで、
当事者の私が
消滅する恐怖を感じつつも
そこに突入した結果、
パワー・オブ・ナウに
身を任せ、
当事者の私が消滅することを
受け入れることができ、
観察者の私だけが
マインドフルな状態で
生き残った…、
ということでしたね。
・・・
そして
エックハルトは、
その著作で断言します…、
苦しみの根源は、
思考と自分とを、
同一視することにある、と。
その結果、
自分=当時者の私、
としか認識できない、
ということになります。
裏を返せば、
観察者の私の存在を
認識できない、
自分=当時者の私+観察者の私、
という認識ができない、
ということです。
・・・
別の切り口で
言いかえましょう。
このメルマガでおなじみの、
ヒトの4つの機能、
という観点からです。
当時者の私、とは、
つまり、
「考える」という機能の
奴隷になっている私、
と言えます。
※実際、エックハルトは
奴隷という言い回しをしています。
他の、
信じる、感じる、動く、
という機能がオフになって、
考える、だけが
暴走している、
とも言えます。
・・・
さらに、もう一つ、
例えです。
一軒家に一人で
住んでいるとします。
居間のパソコンの前に
かじりついて、
ひたすら、
画面に見入っている。
神棚に
手を合わせることも
できるのに、
(信じる)
窓を開けて
風を入れることも
できるのに、
(感じる)
お風呂に入ることも
できるのに、
(動く)
このパソコンの電源が
切れたら
この世の最期だとばかりに、
過去も未来もあらゆることを
検索し続け、
画面に見入っている。
(考える)
考える、という機能の
奴隷になっているとは、
例えば、
そんな状況です。
※この例えは
エックハルトの本には
ありませんが(苦笑)
・・・
ところで、
この暴走は、
そもそものテーマである、
何もしないことに
耐えられない、
という状況と、
どのような
関係にあるのでしょうか?
何もしないことに
耐えられず、
何かをしてしまう、
という状況は、
「考える」の暴走に、
「動く」が振り回されている、
というわけです。
疲れ果てるまで
動き続けても、
動けなくなって
横になっていても、
「考える」の暴走を
止めなければ、
平安は
訪れません。
・・・
どうやって、
暴走を止めるのか?
次回に続きます。
・・・
何もしないことに
耐えられない時、
Do:
まずは、
「考える」が暴走している、
と自覚する。
Don’t:
一層、考える。
いかがでしたでしょうか?
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