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2020/07/27

アプリ「みっぷ」に込められた願い④:神話の表と裏


さて、ジラールの話題が
続きます。

前回は、こちら↓

キーワードだけ、
ピックアップしますね。

社会を自滅させる暴力の連鎖
それを止めるための供犠(くぎ)
それによる社会の階層構造の回復、
それでも訪れる階層喪失
それへの対策である儀式の誕生、
そのシナリオとなる神話
でした。

架空の神話を題材にして、
ジラールの理論を
(あれでも、簡潔に)
お伝えしたわけですが、
重要な補足が、今回です。

・・・

あの神話を、
後世の人類学者が研究した、
としましょう。
(また、架空のお話!)

その人類学者いわく、

「ただ一人、誰の者も盗まず、
誰も殺さずにいた者がいた。

ある日、その一人を、
残った部族の全員が集まり、
全員で、殺した。」

という一節は、

実は、その部族の、
後世の脚色で、

その部族の史実としては、
その全員から殺された者は、

一人の、
足が不自由で
思うように走れなかった
ひとり者の男性で、

以前より、
他人の物を盗んでいたが
足が不自由なため、
黙認されていた人物だった、
ということが判明した、
としましょう。

えっ・・・!?

・・・

これだと、かなり、
神話の印象が
違ってきますよね。

実際、
ジラールの研究では、
いけにえにされる者は、
身体的特徴がある場合が
多かった、とされています。

もっと言うと、
供犠、という仕組みが
機能するためには、
いけにえにされる者は、
誰か一人、選ばれさえすれば、
誰でもよかった。

身体的特徴があると、
集団の中で目立ちやすく、
選ばれやすかった、
というのが、
歴史の実情のようです。

この、
実情を反映した神話を、

最初の神話(表)に対して、
神話(裏)
と呼んでおきましょう。

・・・

この、神話(裏)だと、

供犠、という仕組みの、
そして、それを再演する
儀式、という仕組みの、
効果が薄れてしまう。

なぜなら、
いけにえになる者が
誰でもよかった、
なんて話が表にでると、

供犠のあと、
祀(まつ)られることになる
部族の神が、
もともと、誰でもよかった、
という話になるから。

それって、
権威性が、
乏しくなりますよね。

だから、もともと、
倫理的に優れた者が、

他の部族の者があまりにも
レベルが低すぎたため
いけにえの対象になってしまったが、

それをきっかけに、
残った者が悔い改める、
というストーリーに
脚色する方が、
効果的、ということです。

・・・

これが、
神話(裏)が、神話(表)に
脚色されてしまう理由ですが、
実は、もう一つ、
理由があります。

こっちの方が、
影響が大きいかもしれません。

神話(裏)があからさまにしてしまう、
いけにえなんて、
実は、誰でもいい、という
供犠の本質は、

ものすごく、
人間自身を、
悲しくさせます。

人間は、
社会を維持するため、
仲間の誰かを
誰でもいいから、
その都度、
いけにえにしていくしかない、
という実情を、

誰も、
直視したくは
ないのです。

これって、
すべての人間がもっている、
悪の根っこ、と言えます。

それ、誰も、
見たくないですよね。

だから、
神話(裏)は、
神話(表)に、
脚色されてしまうのです。

・・・

つまり、
この架空の神話(表)は、

その部族の
神と掟の起源について、
供犠があったことを
語りながら、

それと同時に、
その供犠の実情、

いけにえにされた者の
リアルな感情や、
(これは前回、指摘した部分)

そこにあぶりだされる
人間の悲しい性(さが)を、
(これは今回、指摘した部分)

社会の階層構造の維持という
大義名分のもとに、

なかったことに、
してしまうのです。

そして、この神話(表)を
シナリオとして、
儀式が、繰り返されていく。

・・・

この状況は、
たまたま、小椋・作の神話が、
できが悪いから、ではなく、
あらゆる神話に
大なり小なり見いだされる
特性です。

そして、現代でも、
見た目を変えて、
その神話は、存在し続けています。

私たち、ものすごーく、
それに犯されています。

もちろん、現在、実際に、
誰かを集団で殺害するなどの
供犠は行われてはいませんが、

知らないうちに、
誰かを、あるいは、自分を、
心理的・経済的・社会的に
いけにえにしつつ、

それをなかったことにするか、
いけにえにされた苦痛を
一人でかかえています。

次回以降は、
現代に話題を移します。

それに際して、
今までの流れを踏まえて、
神話、という用語を、
次のように、定義しておきましょう。

ものごとの実情について、
わかりやすい説明を与えると同時に、
ある、大義名分のために、 
ほんとうのことを隠してしまう、
その結果、
ほんとうのことを知っている者には
ひどい苦痛を与える、
そんな物語(ストーリー)。

ほんとうのこととは、
大義名分のために行われた
何者かの犠牲、
ということですね。

それが、古代においては
供犠だった、
ということです。

・・・

現代においては、
どうなのか?

次回は、
学校の集団によるいじめについて、
考えてみましょう。

学校の教室というものが、
どれほど、
階層喪失に陥りやすい場になっているか、
(だから、供犠としてのいじめが起きる)
を見て行きます。

その次は、
パンデミックについて。

実は、猛威をふるう
感染症というものは、

人間の暴力の連鎖とは
現象としては異なりますが、

社会の階層喪失を招く、
という点においては、
ほとんど同等で、

古代では、
供犠や儀式がコントロールすべき
危機でした。

その次にやっと、
精神障害者のこうむる差別について、
切り込んで行くことができます。

健常者の誰もが
時に抱く、不安・・・
もしかして、自分もおかしくなってしまう?
いや、自分に限ってそんなことはない・・・

この不安って、
感染症にかかる不安に、
とても似ているのです。
(だから、パンデミックの話題に
ふれておく必要があるのです。)

・・・

みっぷの話を聞く時、

Do: 
みっぷが変えようとする
社会が、そもそも
どのようなシステムになっているのか、
ジラールの理論を参考に
全く新しい観点から
考えてみる。
(前回と同じ)

Don’t: 
次回もジラールの話が続くことに
恐れをなす。(苦笑)
(前回と同じ)

いかがでしたでしょうか?
同じ悩みをお持ちの方は、 
ぜひ一度、お問い合わせください。