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2021/11/08

身体リテラシー入門⑤:根源的な不安はエッジの向こうにある●●から襲ってくる



さて、身体リテラシーのシリーズ、
今回は第5回目です。

前回はこちら↓

膀胱感覚を身につける
子供さんのドタバタ劇を通じて、

チャンネル・スイッチ
増幅法、そして
エッジ、という
プロセス指向心理学の用語に
親しんでいただきました。

今回は、そのエッジ
どのように付き合っていけばよいのか、
このシリーズのテーマに沿って
整理してみましょう。

・・・

エッジ(境界)とは、
自我のゾーンと、
自我ではないゾーンとの
境界、という意味でした。

少し補足すると、
自我ではないゾーンとは、
全くの他人、ということではなく、

広い意味で、自分には含まれるが、
目下、自我はそれを自分とは
認めていないゾーン
ということになります。

膀胱感覚を身につける
子供さんの場合、

臓器としての膀胱や、
そこで発生する膀胱感覚は、

まさに、そのような、
自我ではないが、
自分に含まれるゾーン、
ということになるわけです。

じゃないと、そのゾーンは
そこまで自我に迫っては
こないわけです。

・・・

だから、エッジとは、
決して精神疾患やその症状に
限定して使われる用語では
ありません。

そもそも、
膀胱感覚を身につける過程は
発育・発達の自然な経過ですし、

例えば、思春期の少年が、
女性を初めて異性として認識して
告白しようとするが、

なんとも言えない悶々とした
感覚に戸惑ってしまう、という場合、
彼は、エッジに向き合っている、
と言えます。

今までの彼は、女性とは、
性別が違うだけの
お友だちと認識していた。

しかし、告白してしまうと、
ふられてしまう自分や、
たとえイエスの返事をもらっても
異性と交際している自分が、
誕生してしまう。

そのゾーンは、
どちらに転んでも未知、という意味で
自我ではないゾーン、ですね。

でも、性的な衝動というものは
間違いなく、彼自身のものです。
さらに、成人としての自分の
可能性の芽がそこにある、
という意味でも、
告白をしようとする自分は、
広い意味で、自分に含まれるわけです。

だから、彼の戸惑いは、
エッジに向き合っている戸惑いだ、
と言えます。

つまり、エッジとは、
人が成長する時、
大なり小なり
出現してしまうものだ、
と言えます。

人の成長とは、
既存の自分が、
未知の自分にいわば
進化すること、ですからね。

・・・

でも、
自我のゾーンの許容範囲を超えて、
つまり、こちらの
コントロールできる範囲を超えて、

自我ではないゾーンが
拒否できない圧倒的な勢いで
向こうから迫ってくる時、

エッジに向き合うことは
自我にとっては
最大のピンチになります。

そして、
いろいろな精神疾患を発症する
リスクが高くなります。

というより、
後天的なあらゆる精神疾患は
そのような状況で発症するとすら
言えますね。

・・・

例えば、
職場の過重労働で心身ともに疲弊し
元来のパフォーマンスが発揮できない。

でも、そのような自分を
自分が認められない時、
その自分は、
自我ではないゾーンに放置されます。
そこに、エッジが発生するわけです。

そのエッジに適切に向き合うなら、
休暇をもらう、あるいは
業務量を減らしてもらう、
その間に、スキルアップを図る、
あるいは転職する、
などなど、具体的な対策を
取ることができるわけです。

でも、エッジの向こうの、
パフォーマンスの低下した自分を
放置したまま勤務を続けると
どうなるか。

例えば、うつ病を発症する。
ある朝、からだが
鉛のように重くて出勤できない。
そんな自分が、
一層、認められない。
でも、頭は回らず、からだは動かず、
圧倒的な苦痛が押し寄せてくる・・・。

これが、エッジと
精神疾患の発症とが結びつく
典型的な状況です。

・・・

ここまでお伝えすると
エッジという用語のイメージが
かなりクリアになるかと思います。

さて、ここからが
本題です(苦笑)。

このシリーズのテーマである
根源的な不安(実存的不安)と、
このエッジとは、
どのような関係にあるのか?

言い換えると、
エッジの向こうに
何があるから、
ここまでの不安が襲ってくるのか?

一言でまとめると、
いつかは消滅してしまう
自分のからだ
つまり、死の予感
ということです。

これが、自我のゾーンにとって
最大級に受け入れ難い、
でも否定することのできない
自分、と言えるのです。

でも、誰も死、それ自体を
体験したことがないので、
実は、その実態はリアルには
イメージできません。

だから、それを予感させる
リアルな状況が、
それにとって変わります。

一番は、孤独、でしょう。
誰といても、結局、
自分は一人だ、という感覚。
死んだ時、
きっと、そんな感じだろう。

あとは、何をどれだけ
達成しても、結局、
砂の城のように崩れていく、
虚無の感覚。
死んだ時、
きっと、そんな感じだろう。

そのクセ、
自分は今、生きている。
ある意味、自分の意思を超えて
勝手に。

このエネルギーはどこから
来るのか?

生きることも死ぬことも
自分が自由にコントロールできない
この生命のエネルギーって
何だ?

それ自体が、恐い。

例えるなら、
広大な海洋に囲まれた
ネコの額ほどの無人島の白浜
一人立っている感覚でしょうか。

満潮になれば
島は没してしまうかもしれない、
でも干潮になれば
生き延びることができる?
その運命は自分には全く
コントロールできない・・・。

もちろん、
海が、死で、
無人島が、自我で、
波打ち際がエッジ
ということです。

・・・

これが、
根源的不安に襲われている方の
実情かと思います。

とても
救いようがないように
思われますか?

でも、エッジというものは、
なんとか付き合っていくことは、
できます。

ある意味、
膀胱感覚と付き合ってこれた
私たちの子供時代と同じです。

ジタバタは、
してしまいます、でも、
やりようは、あるわけです。

そのやり方のすべては、
実は、前回すでにお伝えしています。

それ、実際、
この無人島で、
どっから手をつけるのか?

それを次回以降、
お伝えしますね。

・・・

でも、ちょっとだけ
次回の予告を。

まず、膀胱感覚を
身につけるまでの子供さんは、
何をしたか?

腰をふったり
地団駄を踏んだり・・・。

そう、
身体運動のチャンネル
使っています。

身体感覚のチャンネルから来る
不快な感覚を、
身体運動のチャンネルで
表現する。

表現することで、
得たいの知れない感覚を
自我のゾーンに
取り込もうとしている
とも言えます。

かつ、
その表現行為によって、
不快な感覚に飲み込まれることを
免れている、
自我のゾーンを
確認している

波打ち際の波の音に
恐怖しつつも、

飲み込まれずに、
ちゃんと地上として
存在している白浜を、
確認する、そして
ちょっと、恐怖がしのげる、
ということを目指すわけです。

これが、
チャンネル・スイッチの
意義になります。

私の場合、
具体的に何をすればよいのか?

それを次回、
検討しましょう。

・・・

根源的な不安に
さいなまれている時、

Do: 
その不安は
人が出会う中で
最大級のエッジに
向き合ってしまった結果だが、
膀胱感覚を習得した時と同様の
取り組みで
対処できると知る。

Don’t: 
いきなり増強法に取り組む。

※エッジを乗り越える
(拒否していた自分を
組み込んだ新しい自分が誕生する)
には、人それぞれのペースがあります。

波打ち際へあえて
出向いていく前に、
いまある白浜をしっかり
確認できるようにする
取り組みを優先することを
お勧めします。

いかがでしたでしょうか?
同じ悩みをお持ちの方は、 
ぜひ一度、お問い合わせください。